富士山と見せかけて宝永山
スキー練習の合間に、ちょこっとのんびり山登り。
山には物心もつかぬうちから登っていたものの、何を隠そう富士山には一度も登ったことがなかった。
わざとそうしていたわけではないけれど、人が多くて道も単調でつまんなさそうだからそこまで行きたいと思ったことが無かった。
ただ、雪のある時季の富士山には行ってみたいと思っていた。
ちょうど近くのスキー場で練習していることだし、冬季閉鎖中で人もいないだろうということで、気晴らしついでに登ってみることにした。
今回は山頂は目指さず、水ヶ塚1合目から宝永山まで行き、大砂走りを下って周辺をお散歩したあと水ヶ塚1合目に戻る周遊ハイキング。
御殿庭の森は本当に庭みたいに端正で美しく、いきなり富士山に対する偏見が壊れる。
苔も木々もしっかりしている。
なんだ、山らしい山だなぁ。
ほっとするような、あぁ山に来たなぁと思えるような森だった。
わたしは、生き物がある山が好きだ。懐の深さを感じて心が許されるからだろうと思う。
ずっと誰もいなかったけれど、ひとり、写真を撮りに来ている人がいた。
眠すぎて挨拶をしたかどうか覚えてない。
どうせ山頂には行かないしのんびりすればいいや、と思い、広くなっているところで適当にお昼寝をした。
さすがよく歩かれている山なだけあって、編み目のように道がつながっていて、同じ方向へ行く分岐がいくつもある。
お散歩し放題だな。
ずんずん歩き、宝永山へ。
火口、とくに第一火口のかっこよさには目を見張るものがあった。
特にこの、えぐれている上部。
まるで悪魔の爪痕のよう。ぞくぞくする。
でっかくてギザギザした自然の造形物というのは大抵かっこいい。
人間が入れなさそうであればあるほど。
宝永山では1時間くらいぼけーっとして、あの山は何だとか海が見えるだとか言って眺めの良さにかまけていた。
強風で飛ばされた同行者のエアリアを追いかけながら、そのまま大砂走りを下る。
一面が小さな礫で、まるで雪山みたいにどこでも歩ける。
ズボズボ。
砂まみれで楽しい。
眺めもいい。
あぁ、こんなところが一面真っ白になって、スキーで独り占めできたらさいっこーだろうな!
間違いなく、天下を取った気になれる。
雲に向かって下っているとだんだん悲しくなってきた。
このまま下界におりずに、ずっと山にいられたらいいのに。
あそこまで行ってしまうと、またうるさい車の音や雑音、なんとなく居心地の悪い世間、納得いかない社会、つまらない会話、ほこりっぽいアスファルト、生きるのが下手くそな自分が待っている。
かたやここは天国だ。
ちょうどいろいろなことが重なって疲れていた時期だったせいもあるかもしれない。
だんだん涙が溢れて、止まらなくなって、ぐしゃぐしゃになってへたりこんでしまった。
幸いなことに同行者は気付かずどんどん先に行ってくれたので、私は山と二人っきりになって落ち着くまでそこにいた。またいつでも来たらいいよって山が肩をぽんぽんとして慰めてくれたような気がした。
たぶん30分くらい座り込んでいた。
遠く離れたところで待たれている様子だったので、のろのろと下る。
追いついて、しばらくトレースの薄い砂の斜面をトラバースしていく。
なるべく長く山にいたいし急ぐ理由もないので、適当に座ってはお喋りをしながら。
下界への帰りたくなさをぼやいたりした。
山が噴火して死の世界と化した野がどのようにして森になっていくのか、頼まれてもいないのに講釈を垂れたりした。
生き物の話から、大昔の地球の話にまで脱線し、まわりまわってだからやっぱり下界に帰りたくないという屁理屈をこねたりした。
今思い返すと、何故あんな話をウンウンと聞いてもらえたのかわからない。
たぶん話の8割以上は意味不明だったろうと思う。
そうか聞き流す力か。
わたしも欲しい。
下の方にぽこっと2つ塚のような小さな山が見える。
登ろう。
登るに決まっているじゃないか。
下山を先延ばしにする格好の理由だ。
宝永山から下り始めてずっと、山頂には傘雲がかかっていた。
きっと吹き荒れてるんだろうなぁ。
このアンニュイな気分のときに山頂も荒れ模様ときたので、富士山はなかなか話のわかるやつかもしれない。
えらそうなことを言いましたごめんなさい。
世界遺産(ドヤァ)とは思えぬ「始祖」の石碑の雑さ、味わい深い。
森は紅葉していて、ふかふかの落ち葉をシャカシャカと軽やかにラッセルしていく。
いい、山でした。
閉山後に1合目から歩く富士山は、思い描いていたのとは全然違っていて、山としてとても面白かった。
こんな山には登ったことが無かった。
森林限界より上は確かに一様で少々だるい。永遠に終わらないかのように続く。
けれども、その圧倒的な単調さをたった独りで湛えていることこそが富士の凄みなんだなと思った。
こんどは雪の富士山に会いたいな。
そして日本一高い空を見てみたい。